忍者ブログ
2024 / 03
≪ 2024 / 02 1 23 4 5 6 7 8 910 11 12 13 14 15 1617 18 19 20 21 22 2324 25 26 27 28 29 3031 2024 / 04 ≫

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。



シリーズ、あしたの太鼓打ちへ・・・その十四
**********
「たった一つの太鼓だけで、どんなことができるのか、をやってみる。
そこに行き着くまでの試行錯誤でやったあらゆることを、
一つの太鼓の中に生かしてみる。
シンプルがいかにたくさんの要素でできあがるのかがわかれば、立派。」
 姿の良い太鼓を打つ・・・
格調の高い太鼓、見える形のことではなく、意識の問題。
 『本人が苦しいくらいで、ちょうどいい』
人に見せることで成り立つ表現者としての、強烈な自意識でもあり、
また、自己犠牲の言葉。
美しく見せるということの極意である。
 奇をねらった表現より簡素な表現のほうがずっと良いからといって、
初めから何もしないでいることは、簡素な表現さえ身に付かない・・・
無作為に見えることが、ただの無作為ではなく、
あらゆる経験や工夫を経た後の、巧まざる表現になってはじめて、
生きた物になる。
 観阿弥、世阿弥の猿楽の時代から歌舞伎の担い手まで、
この国で表現を職業とする者は常に『どう見せるか』ということと戦い続けてきた。
それは『みられてなんぼ』と言うこと。
太鼓は視覚的要素の多い‘音楽’なので、
見られることを過剰に意識しすぎる必要はないにしても、
良い音を出すにふさわしい、適った動きがあるはず。
それを意識できれば、無駄な動きや無駄な力も抜けるはず。
その状態が‘姿の良い太鼓’である。
**********
次郎丸太鼓は〝プロ〟ではありません。
30分やっていくら!という基本料金なのども決まっているわけではありません。
ただ、
やはり謝礼としていくらかいただくことは多ございます。
何を表現しようと、
どう伝えようと、
お金をいただくからにはそれに見合ったパフォーマンスをすることを、
個々が意識しなくてはいけない。
(もちろんいただくなくてもやるからには一緒です。)
『次郎丸太鼓』という〝楽曲〟をどう魅せるのか?
そして、
与えられた時間をどう見せるのか?

継承していくために守っていかなければいけないこと。
継承していくために変えていかなければいけないこと。

拍手[0回]

PR


【『本人が苦しいくらいで、ちょうどいい』】
強烈な自意識、自己犠牲・・・
ステージ上での苦しさはもちろんですが、そこにたどり着くまでの稽古、葛藤、悩み、苦しみ・・・
何故そこまでして太鼓を打つのか?
そういうものを全て内に秘めて打つ〝一打〟はもうそれだけでパフォーマンス、だと思いませんか?
そういう〝一打〟が打てるように、また苦労や葛藤があるわけなんですが・・・
以前『打つ理由』というlogを書きました。
どうしてそんなにまでして、太鼓を打つのか?
『いいじゃん、楽しければ。別にプロでもなんでもないんじゃけ、、、』
じゃ、ほんとの楽しさや、充足感はそこにありますか?
この記事へコメントする








絵文字:
Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字








02 2024/03 04
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31
[11/21 たけとも]
[11/20 たかっぽ。]
[11/19 たけとも]
[11/28 三郎丸さん。。。]
[11/27 たかっぽ。]
HN:
たかっち。
年齢:
59
性別:
男性
誕生日:
1964/07/14
職業:
パーマ屋さん。
趣味:
夜run(謎)
自己紹介:
カットが出来る、太鼓打ち!!