2016/06/11 15:08:17
昨日はこまい声の収支決算報告会でした。
で、
40thのテーマについても少し。。。
その中で『半尾川と西条東』についてちょこっと話をしたのです。
中学の頃・・・
土与丸の我が家から西条中まで通うのにいつも『西条東』を通っていたんですが、
じつは『西条東』は西条の西に位置するのです。
西にあるのに東とは、これ如何に?
ということでずいぶん前から気になっていたのですが、、、
東京から西条に帰って来た時に調べてみました。
で、
40thのテーマについても少し。。。
その中で『半尾川と西条東』についてちょこっと話をしたのです。
中学の頃・・・
土与丸の我が家から西条中まで通うのにいつも『西条東』を通っていたんですが、
じつは『西条東』は西条の西に位置するのです。
西にあるのに東とは、これ如何に?
ということでずいぶん前から気になっていたのですが、、、
東京から西条に帰って来た時に調べてみました。
元々この地は平安の頃には半尾川を挟んで条里制という、
西条と東条に分かれ整備された町なのだそうだ。
西条盆地という広い平地が「半尾川」で東と西に分けられていたんですね。
西条と東条に分かれ整備された町なのだそうだ。
西条盆地という広い平地が「半尾川」で東と西に分けられていたんですね。
つまり、半尾川沿いの『西条東村』は、文字通り西条の東のはずれにある村だったのですね。
「東条郷」「西条郷」と平安時代以来呼ばれていたこの地域は、
南北朝時代の頃から二つを合わせて「東西条」(とうさいじょう)と呼ばれるようになり、
南北朝時代の頃から二つを合わせて「東西条」(とうさいじょう)と呼ばれるようになり、
それが 戦国時代くらいになると、頭の「東」という文字が取れて、
ただの「西条」とのみ呼ばれるようになったのだそうだ。
ただの「西条」とのみ呼ばれるようになったのだそうだ。
当時「東西条」というのは西条盆地だけでなく、
最終的には旧東広島市域の大部分の呼び名となっていたので、
「西条」と呼ばれるようになった時にその呼び名自体の示す範囲も、
非常に広域のものになってしまったのだそうだ。
最終的には旧東広島市域の大部分の呼び名となっていたので、
「西条」と呼ばれるようになった時にその呼び名自体の示す範囲も、
非常に広域のものになってしまったのだそうだ。
で、結果「西条」で最もにぎやかだった江戸 時代の宿場町「四日市村」が西条の中心になり、「西条」が「四日市宿」を指すように なってしまったために、
本来「西条郷」の東端であった『西条東』が「西条」の西側になってしまうという、
なんとも変な現象が起きてしまった・・・ということなのです。
え゛?これが40thと関係が有るのかってか?
なんとも変な現象が起きてしまった・・・ということなのです。
え゛?これが40thと関係が有るのかってか?
ん~~~、ボチボチ有ります(汗)
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